自己紹介

アリマカナコ
作家兼自身のパトロン(会社員)。文章・フィクション・ノンフィクション を書きます。
1991年生まれ。東京都在住。熊本県熊本市出身。
大学時代は、戯曲を主に執筆。
現在は戯曲の他、小説、エッセイ、ブログを執筆し、ネット上での発表やイベントでの出展等で勢力的に活動。
自身のコンセプトカフェ訪問での出来事や心情をまとめた「メイドカフェご帰宅日記」(2015年)が100部を完売。他著書多数。
趣味は、一度も行ったことのない場所へ行くこと。飲食店で頼んだことのないメニューをオーダーすること。


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卒業以来交流の無かった同級生に死を悼まれたら 「死んだ時だけ言及すんじゃねえ」 って言うんですかね

システム化されないまま人気になっていくと、

「自己アピールができるヲタクが正義」化していくじゃん。

いや、どうでもいい。

ってなってしまう

これすごい一人っ子っぽい思考だよね…一人っ子なんですけど。

 

ずっと前から本当によく見る光景だけど

「普段は言及しないのに死んだ時だけ、辞めた時だけ言及する奴」

って馬鹿にするの、言及されてる本人が言うならまあそれもまた真実ってかんじだけど、全然関係ない第三者がそう言うの結構意味不明だなと思うんだけど…。

そういう人達は自分が死んだとき、例えば卒業以来交流の無かった同級生に死を悼まれたら

「死んだ時だけ言及すんじゃねえ」

って言うんですかね

??

どういう立場から物言ってんのかほんとに理解できない。本人以外が、「いなくなる今この時にせめて」と口を開こうとする人達を黙らせようとする意味。

もしマウンティングの意図しかないのなら、他人の人生の岐路や節目を自分のマウンティングの種にするお前の方がだいぶおかしいんじゃないんですかねって

思うんですが

 

 

君という光が私を見つける

あきらかに他の女の子と違う様子で、お客さんに話しかけるよりはお皿洗いとか料理を運ぶとか、ひとを避けていて、でもそれでも自分を好きだと表明するお客さんには精一杯心を尽くそうとしていて

「売れて遠くに行けたならきっと、今聴こえているノイズも聞こえずにすむ日が来るはずだから」

私はその頃何度となくそう伝えたけど、グループ所属する最後の最後まで、そうじゃなかった。聞こえる音に耳を傾け続けるひとだった。変わっていなかった。私が間違っていた。

「なんで同じ子が好きだという理由で、仲良くなった方がいいんですか」

と、当時の私は仲良くしてくれようとしたひとに割と素で聞いてたようなひとだったので、だから当たり前にいつもひとりだったんですが、でももがちゃんはそんな私の存在すら見落とさなかった。

 

時が過ぎて、セカオワのSaoriさんがもがちゃんのブログやSNSにたびたび登場してた頃、もがちゃんが活動を続けていくでずっともってる根源的な孤独や苦しみは、ファンの立場にいる人間には誰にも救えない、という事実がどうしようもなく苦しくなってしまった。

つらくとも、汚い自分を押し殺したりあるいは表出してしまったりしてでも、好きで居続けることの方が本当はヲタクとしては正しい。

でも「あなたがいるから楽しい」と言い切れなくなってしまったらもう応援するべきじゃない、こんなに私は好きで応援してるのにどうして、といつか責めてしまいそうだから、という正しさの方が私の中で勝ってしまった。

普通のツイートも何百何千とリツイートされてしまうようになったもがちゃんのSNSの更新頻度は当たり前に下がり、どんどん気持ちが見えなくなってしまった。

 

でもふと更新される、長いブログを読んではその真摯さに、ああ、あの頃と心はなんにも変わらないんだなあ、でもどんどん強くなってくし大人になってく

っておもってて。

 

それでも、度重なる体調不良、時々耐えかねたようにつぶやかれる心情の吐露、他メンバーに矛先が向かいかねない不穏な言葉

 

向いてるか向いてないかで言えば、全然向いてない。

本人もみんなもわかってるのに、ギリギリでいつも踏みとどまってる。

向いてなくても、真摯にやる。お仕事だから、生きていくために。

向いてなくても、それでもやればやっていくだけ培われていくものがある。

向いてなくても、真摯にやればそのことを必ず見てて分かってくれるひとがいる。

 

そんな姿が、見てるひとの勇気に変わる、そんなアイドル私は今まで知らなかった。

 

ほんとにギリギリだったんだと思う。

だから、これだけギリギリのところで踏みとどまり続けたもがちゃんが8/6に脱退しましたというのなら、もうそれは8/6脱退しか無理だったんだろうなとおもう。それ以上待つ、耐える、我慢するという選択はもうどうしてもありえなかったんだとおもう。水中で息止めてる人が苦しくて顔上げようとした時「まだ顔を上げるな、息を吸うな、我慢しろ」とは絶対言えないじゃん。私にとって今回のもがちゃんの脱退ってそういうかんじ。

 

 もうほんとに、十分、十分すぎるほど、がんばったと思う。

ファッション雑誌の表紙を務めて、リキッドルーム、武道館、代々木第一体育館でライブして、地上波に出て、見せて欲しいもの全部見せてもらったとおもう。

だから私は、アイドルグループを卒業したもがちゃんがこれからどんな景色をつくっていくのか、たのしみ。でも私のそんな気持ちよりなにより、もがちゃんがしあわせに、たのしく生きてくれたらそれが一番うれしい。

 

私は最初から最後まで良いヲタクにはなれなかったけど、他の誰よりアイドルに向いてないあなたが私にとっての最高の推しで、最高のアイドルだった。

金曜に眠った私は月曜日に目覚め、日曜に眠りについた私は翌週土曜日に起き上がる

今週がなんか身も心も死、よって一切の言葉も死んだ、だった。。

どうにかしなきゃと思いつつ、何も思いつくことができず、動機がなく、だからといって諦めや言い訳もいや、停止

というような。

 

なので今日の中央線沿線行きたかったお店巡りで何かが息を吹き返したような気持ちだった…。好きなものやひとに触れることや美味しいものだけがいつだって私の救済だ。

 

休日の人生と平日の人生がどんどん乖離して行く…。

金曜に眠った私は月曜日に目覚め、日曜に眠りについた私は翌週土曜日に起き上がるのだ、もう最近そうとしか思えない。

それでいいのかよくないのかもよくわからないし、でもそれはいつかまた必ず統合される日が来るんだろう。そのいつかはいつなんだろうってことに興味がある。

 

 

 

TOKYO鮮烈な死とゾンビのまち

端的に図太くて手数が多くて、他人の痛みや自分の痛みに結構鈍感な人が勝ちやすいな~、プラス知性があれば得られる勝利がどんどん大きくなるなー

と常々おもっていて、でもなんか自分はどう考えてもそういうフィールドには行きたくないし行けないから、なんか別の勝利条件を自分で勝手に作って勝手に勝利していきたい

 

自然naturalルーツとか本当、がある地元や田舎から出ていきたくて都会を目指すということは、それだけでもう、1回死んでるといえば死んでるのかもね、みんな。

その死ぬときの鮮烈な痛みが輝きだ、と思っていたひとのブログの文章が10年後、手癖だけになってしまったね、と思ってしまうのは、果たしてどっちがゾンビになってしまったからなのか。

あなたの真摯さは必ず誰かを救うよ、といつでも言えるように

私の真摯は誰かのいい加減とか虚栄とか無神経とか気まぐれとかで簡単に潰されちゃうよ~~~~!!それでも私は「あなたの真摯は誰かのいい加減によって簡単に潰されるよ」って絶対に言いたくないよーーー!!!

と思ってどしゃぶりの心、雨宿りの気持ちでメイドバーメーァに駆け込むなど…。

 

私はそれでもやっぱり、あなたの真摯さは必ず誰かを救うよ、って言える自分でいたい、、、そのために私自身は強くなければ。勝ち続けたい、と、思う。何に対して?全部に対して

 

 

 

 

 

劇場版ポケットモンスター キミに決めた!

劇場版ポケットモンスター キミに決めた!

を見てきた。

ピカチュウとサトシの出会いや仲良くなるまで、バタフリーとの出会いと別れ、捨てられたヒトカゲが、自分を捨てたトレーナーの「ここで待ってろ」の命令を守り続けるエピソード…。

初代アニメや漫画を見てた身としては超超超泣いてしまうエピソードてんこもりで実際冒頭から大号泣だったんですが、大人になってから見ると気になるのは、

サトシは

「キミはオレが嫌い?オレはキミのことがすきだよ」

「友達になろう」

ポケモンは友達」

「世界中のポケモンと友達になりたい」

とか言っているのに

いざサトシのポケモンになったら

「◎◎(ポケモン名)、ゲットだぜ!」

って言うの、変じゃない??っておもって。

誰かと友人関係を築こうと提案しておきながら、いざ自分のモンスターボールに入ったら「手に入れた!」と表するの…?

人間同士で友達になった時に

「花子ゲットだぜ!」「太郎ゲットだぜ!」

とか絶対言わないじゃん。

ポケモン、ゲットだぜ!」

というフレーズがポケモンやサトシの代名詞になってるからっていうのは分かるんだけど…。

 

あと、敵キャラクターのクロスは神的な存在から心が黒いと断定されるほど悪い人物なのか?サトシは神的な存在から心が清いと断定されるほどほんとに正しい人物なのか?

疑問が残った。てか2017年の今、正義と悪に感情や人物を色分けしても何も解決しないし、それは単なる差別だっていう時代で、そのことを同じ子供向け映画でも、ズートピアやシュガーラッシュやアナ雪は丁寧にやってたのに。

ポケモンバトルは友達になるためにやるんだ」っていうサトシの言葉も正直詭弁にしか聞こえないし、悪役からの攻撃によって戦闘不能になったポケモンは傷ついて死にそうになって、悪役じゃない人物からの攻撃によって戦闘不能になったポケモンは大きなケガもなくコミカルに目を回してるだけ、って演出が区別されてるのはなんか変じゃない?って思う。

 

楽しいし泣けるとこもあって、教訓が全くないわけじゃない映画かもしれないけど、でも大人キャラがスクリーンの前にいる現実の子どもたちに向かって

「少年少女よ夢を持て!」

と言えるほど、この映画は2017年の社会を生きる子どもたちに生き抜く力や夢を貫く力を本当に与えられているのだろうか??

と考えてしまった。

 

敵キャラのクロスにサトシが負けた時、クロスが投げかけた命題にももっと真正面から答えて欲しかった。

「ホウオウに選ばれた人物かもしれない、悪い人間じゃないかもしれない。でも勉強不足や判断の誤りで自分のポケモンを傷つけ不要な敗北を招いたことは間違っていないか?」に対する答え。

それに対する自分なりの答えを明示しないままピカチュウと仲直りし、自らの判断ミスが招いた敗北に対する言葉はないまま、再びリザードを使って今度は正しい戦い方と適切な指示でクロスに勝利する。

 

 

サトシが言うポケモンマスターの定義を「世界中のポケモンと仲良くなる」と言ったけど、なんかそれは「自分探しの旅」並に曖昧な言葉だなあと思って…。

初期は「ポケモン図鑑を完成させる」じゃなかったっけ?

ゲームでは単なる収集としてやってる活動をアニメでは友情を築くと言い換えるのちょっと無理がないか??と思った。

 

ポケモン20周年記念映画だということだったけど、何か思い知ってしまったのは20年前と全く変わらないサトシという主人公がもうすでに現代にそぐわなくなりつつある人物像であるということ、ゲームなら許されるある種の残虐さ(奪った命はいちいち気にしない、経験値やお金得たキャラクターの個体値だけ気にするなど)を前提にしてつくられたゲームと同じ設定をアニメや映画でやるのはやっぱりどこか無理や矛盾が生じてしまうということなのではないか、ということ。

 

ポケモンは世界中の子どもたちに知られているとは言うけれど、やっぱり日本の子どもや日本社会しか前提にされてない気がしたし、日本社会のガラパゴスや閉塞感が透けて見えてしまっている気がした…。

 

 

上記もめちゃくちゃ本音だけど、でもそういう気持ちとはまた全く別のところで、やっぱり友情っていいな、素敵だな、超大事だなとも思ったよ。

10代以前の頃の方が友情?ケッ嘘ばっかり!!って思ってた。今の方が友情の大切さがわかる。

なぜなら友達だろうが恋人だろうが家族だろうが、どんな関係性に置いても根っこに友愛があって欲しいと思うから。

君と私は対等だよ、っていうことを前提に関係を築くということ。一番、大事で素敵なこと。