自己紹介

アリマカナコ
インターネット超文章担当。文章で作品を作って発表しています。フィクション、ノンフィクション、etc
1991年生まれ。東京都在住。熊本県熊本市出身。
日本大学芸術学部演劇学科劇作コース出身。在学中は劇団を主宰して自主公演を行っていました。
現在は小説、エッセイ、ブログ等々を執筆し、ネット上での発表やイベントでの出展等で活動中。
自身のコンセプトカフェ訪問での出来事や心情をまとめた「メイドカフェご帰宅日記」(2015年)が100部を完売。他著書多数。


連絡先
arima.oremeru@gmail.com

やってること
・イベント出展(文学フリマコミティア、自主企画、etc)

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・ブログ(ここです)
http://arikana.hatenablog.com/

・noteも更新中。
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2018.01.01更新

インベカヲリ★写真展「ふあふあの隙間」

何もかもピッカピカで整然としたニコンプラザ 新宿の一角にあるギャラリーでやっていた。

 インベさんのことやその作風は何年か前から知ってこそいたけれど、やっぱりPCやスマホの画面で見るのとはまた違った迫力が、大判の写真に囲まれたあの空間にはあった。

 

「普段の生活では誰にも見せない本当の、本来の私」

そういう一面もあるのかもしれないけど、

「これは今日の私であって、明日は違うかも」

ぐらいの不確かさで、誰にも見せるつもりのなかった誰かの日記を覗いてしまっているような。

女性が、人間が、あなたが生きているということの深淵さが怖いような、はたまたとても愛おしいような

全部が嘘のようで、何よりも本当のような

そういう両極の間を曖昧に行ったり来たりしていた

 

インベさんが在廊していて、お客さんと歓談している声をBGMに作品を見ているのも不思議な気持ちで

他人をジャッジするつもりのないまなざし

を感じた

インベさんの視線がレンズで心がフィルムで
ぐらいに、インベさんの視線は誰をもジャッジしたり、「この人はこういう系の人」とぱっと見の印象で人を系統立てたりしていないように感じた

 

少し露悪的な印象を受けるのかなと行く前はなんとなく思っていたけれど、実際行ってみたら全然そうじゃない、善悪を超越して静ひつな空間だった

 

全然正しくもなければ優れてもいない今この瞬間の私を、誰か興味を持って欲しい、面白がって欲しい、だけどどうかジャッジしないで欲しい

その望みが叶えられた時に現れるのが

「ふあふあの隙間」

なのかも、と思った

 

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あなたがあなたとして生きていることを、私が私として生きていることを、祝福できたなら。

先日マリーエンケーファーで開催された、「天国にいちばん近いZINE」展に行ってきた。

 

 

うろ覚えだけど、数年前ゆっきゅんが何故ミスiDの候補者として選出されたのか、「美しかったから」だったという話を聞いた覚えがある。

すごくよくわかる。

 

私にとってゆっきゅんはひたすら美しく生きることができている人で、いつもなんだか見ていると少し心がずきずきしてしまう人だった。それはたぶんやっぱり自分が子どもの頃、子どもであるばかりに無力で、どうあがいたところで結局傷つけられて悲しい気持ちになるしかなかった、みたいなことがずっと一杯あって、そしてそれを大人になってもまだどこかでひきずっているからで…

 

だから私とは全然違う世界を生きているゆっきゅんから見える世界がどんな色をしているか、なんて全くわからなかった。

写真は「あなたがいる世界」がなんなのかが可視化される。それに対して文章は「あなたから見える世界」がなんなのかに触れさせてくれる。

今回私が購入することが出来た、ゆっきゅんが書いた「体操ブログ」がまさにそうだった。

遅すぎだと思いますが、私が体操ブログを読んでやっと気づくことができた、他の誰にもないゆっきゅんにしかないその大きな才能は、「王子として生まれ、王子としての自らの才能を愛し、王子として生きることができる」という才能でした。

 

例えば、王子として生まれ王子としての才を持ち、だが本人は王子ではなくラッパーを志向しているが、どうにも王子としての品の良さが滲み出てしまいラッパーにはなりきれない…

とか、

王子として生まれたが、世間様や親せきから「いやもう現代なんだからごく庶民的に、就活して就職して生きるべきだ」と言われ続けたからそういうもんかとおもって就職するが、朝7時に起きて満員電車に乗って、9時までに会社へ出社するという生活が無理すぎて鬱になってしまった…

とか今はそういう悲劇に溢れているでしょう。

だから、「王子として生まれ、王子としての自らの才能を愛し、王子として生きることができる」というか、「ゆっきゅんとして生まれ、ゆっきゅんとしての自らの才能を愛し、ゆっきゅんとして生きることができる」がどれだけすごい才能か。

 

誰もが王子様としてお姫様として生きて行けるわけではなく、でも私が私として生まれて私として生きて行こうとすること自体は、きっと本当は誰でも志すことができるはずで、そこにこそ最も自由があるはずで、私だってずっとそういうつもりでいたけれど、まだ完全なアリマカナコになりきれていないからまだ少し、そういう気持ちになってしまうのでしょう。

それは別に、開業医の家に生まれた子はラッパーになるなとか、貧乏な家の子が大学進学を目指すなとかそういうことではなく、私が私で居続けるために、あなたがあなたで居続けるために、大事なことや必要なことはなんなのか、という話で。

「あなたがあなたじゃない人になれば(それを演じることができれば)、こんなに幸せになれますよ」と、そういうことを平気で囁いたり怒鳴ったりする大人が一杯いるけど、ほんとはそんなのぜーーーんぶ嘘だよ。

 

私が完全体の私になった時、ゆっきゅんはきっともっとゆっきゅんとしてあるべき姿を手に入れているでしょう。その時ゆっきゅんと私の間にある断絶は今よりもっと深くなっているでしょう。

でもきっとそうなれた時ようやく、私は何も心が痛むことなく、ゆっきゅんのことを好きだと手放しで言えるようになるのではないかと、そういう気がしています。

 

 

 

「互いに孤独なまま、断絶ごと相手を愛する」ということをおもう時、私は浜崎さんのSURREALを思い出します。

浜崎あゆみ Surreal 歌詞 http://j-lyric.net/artist/a000617/l006e8c.html

www.youtube.com

 

 

誕生日特典を初めてお屋敷で受けた日について

誕生日当日ではなかったのですが、初帰宅からおよそ7年にして(※帰っていなかった期間の方がずっと長いけど)スワロウテイルでお誕生日特典を発動させました。玄関で杉村さんに会員証を確認される。

 

お祝いされる時にお屋敷中の使用人とお嬢様に拍手されるのはちょっと気が引けたので、

「あのー、あれって静かにして(祝って)もらうことってできないんですか??」

と聞いた。言ったそばから言葉をはしょりすぎてすごい超ひどい言いぐさだな自分と気づいてしまいつつ

「できますよ。」

「えっ、それは誰に言えば静かにしてもらえるんですか??」(またひどい言いぐさだ…)

「私で大丈夫ですよ。」

と言われ、杉村さんがインカムで私の到着を連絡する。

「ドアマンです。(私の組の人数、呼称等々を意味する暗号を言った後)おしとやかなバースデーをご希望です」

(お屋敷側も通常バースデーがおしとやかじゃない自覚があったのか…)

というのが変なツボに入ってしまいそうになったのを真顔でこらえた。

 

ドアが開くと予想通り吉川執事…と、浪川さんだった。

びっくりした!!だって私は9割9分の使用人のひとから認知がないのに超貴重な認知ある浪川さんがこの日の担当とは…。

浪川さんのお給仕初日に担当にあたり、10か月のブランク後帰宅した時に浪川さんの成長ぶりに感動し、「あ、固定(推し)の使用人がいなくても、疑似恋愛も嘘も嫌いな私でも、使用人の成長や変化を見守り楽しむというスタイルなら、楽しく帰宅していけそう…。」と気付いた私はその日をきっかけに、頻度は高くないもののまた定期的に帰るようになり、そして私の初めてのバースデー担当は浪川さんという。偶然という名の采配の妙だった。

 

バースデーの特典自体は、なんかネットでお屋敷レポ書いてるお嬢様みんなあんまりネタバレしなくてえらいな~と思いました。そのおかげでどれもこれもすごい新鮮に楽しんでしまった!!

なので私もそれにならい、特典まわりの話はネタバレ控えますね…。

 

お祝いのターンが終わったあと、八幡さんが、「ではここで浪川がお祝いの歌を歌います。私は喉の調子が悪いのでまた来年!」と言って去って行った。最初八幡さん無表情クールでどちらかといえば怖かったのに、今やこんなに愉快な人…。

浪川さんはそれを受けて「歌は私も好きですが…、」

「また来年?」

「そうですね、また来年。」

 

浪川さんは「私の初日のお給仕で担当させていただいたありまお嬢様のバースデーで私が担当になると聞いた時には驚きました」と言われて、それは私のセリフだよ!!って感じだった。

 

お化粧室に連れてってもらう時に

「お誕生日はどう過ごされてました?」と聞かれ、

「生まれて初めて叙々苑に行ったんですけど…池袋の。窓の前にどーんとLABIの看板が出ていて『え、夜景これ!?』みたいな」

という話で一笑いした後

「六本木の最上階のレストランとかには行かれなくていいんですか?」

「うーん、じゃあそれはまた来年!」

「また来年wwでは私のお祝いの歌もその時に」

 

出発の時、次吉川さんに会ったら絶対万引き家族の話しよ~とか思ってて、前回「カメラを止めるな!が見たい」と言いたいところ単語が出てこず「あのー、、あれが見たいんですよね。『撮影してはいけません』みたいな」って話をして(しかしそれで映画名ちゃんと当てた吉川さんすごかった)、今日は絶対間違えないぞ!と思ってたのに「こないだ泥棒かぞ…じゃなかった万引き家族を見て」って言ってしまって完全に「またwwwそういうwww」的な笑いがうまれてしまった、、

しかし吉川さんは私が知ってるような映画はことごとく知ってらっしゃるからすごい…

 

バースデー、なんかどうせあんま話したことない使用人のひとからすごい事務的に祝われるんだろうな~とマイナスに近いぐらいハードル下げて帰宅したら思いのほか楽しく過ごせてびっくりしました。ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

孤独のグルメの井之頭五郎はなぜ「お酒が飲めない」というハンデを背負わなければいけなかったのか

※私は原作の漫画をほぼ読んでいないのでテレビドラマ版孤独のグルメを前提にした記事です

 

孤独のグルメの主人公井之頭五郎はなぜお酒が飲めないというハンデを背負わなければいけなかったのか」これを明確に意識したのは、テレビドラマ版ワカコ酒を見てしまったから…

 

対して孤独のグルメ井之頭五郎。背広姿で働く中年の自営業、男。そのスペックは一人外食の世界の中では圧倒的強者だ。一人でらーめん屋に行っても寿司屋にいっても、居酒屋へ行っても牛丼屋へ行っても「あの人浮いてるな~」とはならないだろう…。

だけど私は五郎ちゃんを女な自分と全く違う強者な生き物だな~と妬む気持ちにはなれなかった。

それにはいくつか理由があるけれど、最大の理由はやっぱり、私は女であるというハンデを背負っているが、五郎ちゃんはお酒が飲めないというハンデを背負っている、という点にあると思う。五郎ちゃんは私のハンデを完全には理解できないだろうが、私もまた五郎ちゃんのハンデを完全には理解できない(なぜなら私はお酒が飲めるから)その点において私と五郎ちゃんは対等だ。

孤独のグルメでは、劇中で何度も五郎ちゃんはお客さんやお店の人から、「えっ!?下戸なの??その顔で。」と言われては「よく言われます。」と苦笑いする。

それは、ワカコ酒で主人公が隣の隣の席のカウンターに座っているサラリーマンから「えっ!?女一人で外食??」と思われたことと同質のものだろう。

ここは少なくとも今現在、そういう社会だから。しょうがないで済ませられないけどただただそれが今の現実だ。

だからこそ、背広姿の男性である五郎ちゃんは、それでもあらゆる属性の視聴者と対等な存在であるためにお酒が飲めない人物である必要があった、私はそう思います。

別に女一人でご飯を食べているからといって誰からもどうとも思われず、お酒が飲めない人に対して全員が「そうでしたか」としか思わない社会が実現した時にようやく、五郎ちゃんのモットー

モノを食べる時はね、誰にも邪魔されず 自由でなんというか救われてなきゃあダメなんだ 独りで静かで豊かで・・・

 を誰もが完全に達成できる日が来るのだと思います。

 

 

 

 

コンカフェは見ず知らずの私を人間として扱い、私に人間として生きて行く術を教えてくれた場所だった

なんかだいぶ前に、とあるコンカフェのお客さんが「◎◎って言うと、キャストさん達は◎◎してくれるよ!」って言ってたんですよね…。豆知識披露的なノリで。まるで「スタバの抹茶フラぺ、レジでオールミルクって言うとおいしくなるよ!」ぐらいのかんじで。

いやでもなんか私めちゃくちゃ時間経ってるのにいまだにその言葉を時々思い出してしまうぐらいには結構ショックで。

なんていうか、『あっ、この人はそのコンカフェのことは好きだけど、そのコンカフェのキャストさんひとりひとりを人間として扱っているわけじゃなかったのか…。」

的な。「◎◎って言ったら◎◎してくれるよ」ってなんていうかすごく、人間を自販機というかbotというかペッパーくんというかとして扱う行為じゃないですか…。

そういう、人間を人間として扱わなくなっていく世界から一瞬でも逸脱して人間に回帰したい人たちが行くとこがコンカフェだと勝手に私が思ってて、勝手にショック受けただけだけどさ…。

 

ツイッターで「最初に通ったコンカフェでのスタイルが、その後もその人のスタイルになる」みたいなこと読んで、ああ、わかるな~とおもって。

というのも私が初めてちゃんと通ったコンカフェが7年前ぐらいのディアステージなのですが、「誰かに楽しませてもらえるのを受け身で待つな、自分が楽しいと思うことを自分のスタイルで楽しめ」というDIY精神が強化された。なんかディアメンもディアガディアボもとかくそういう意識が強いし、色んな面白いイベントを色んな子が企画提案しているのがすごく楽しかった。

やっぱりディアステにほとんど行かなくなった今もその精神はずっと続いていて、どこにいてもそうだけど、特にコンカフェに行くと、ルールを侵さずだけど最大限マニュアルを逸脱してどうやったらオリジナルの楽しい一瞬を作れる?っていう意識が強くなる

マニュアルだけに終始する飲食店に行きたいならコンカフェじゃなくてよくない?っていう場所が私的なコンカフェの条件だから、余計にそういう意識が研ぎ澄まされるのかもしれない。

 

私はもしあらゆる芸術がなかったら、アイドルがいなかったら、コンカフェがなかったら、いまだに家の外にいる人達を1mmも信じることも愛することもできずに家から一歩も出れていなかっただろう人間なので…。

どうやったら自分だけじゃなくて相手にも楽しんでもらえるだろうとか、素性も本名も知らない人と一体どんな話をしたらいいだろう

とかいうことをもしかしたら本当に一生考えもしなかったかもしれない。

コンカフェは見ず知らずの私を人間として扱い、私に人間として生きて行く術を教えてくれた場所だったので

だからこそ、コンカフェで人間を人間として扱わないひとを見ると本当につらい気持ちになるなという、はなしでした

 

 

会社員でも美しく生きる

世の中には色んな人がいるということが可視化されすぎて、生きづらさも、美少女好きな女の子も、メンヘラも、精神疾患もたいしたアイデンティティじゃなくなってしまったね

フリーランスディスる会社員は周りにいないけど、会社員をディスるフリーランスは結構よく見る。

私も別に一生絶対会社員!!と強く決意しているわけではないけれど、別にそんなディスられるほど悪いか会社員?とも思う。

「普通じゃなくても普通のふりができれば会社員になれる、とかほんとクソみたいですね」

クソなんでしょうか???まあクソでもいいです。

ていうか私からすると別に会社員やるために普通のふりするとかさえ必要なくて、一定の職能があり定時までに会社に着く能力があれば(←いやでもこれが実際一番大変)、事業を作る能力がなくても人格に致命的な欠陥があっても人脈がなくても友達が全然いなくてもSNSのフォロワー2ケタでも仕事とお金がもらえるという点においては、めちゃくちゃ素晴らしいシステムでは…と思ってますが

 

毎日満員電車に詰め込まれる会社員はそんなに汚くて、フリーランスがそんなに美しいのかよ、と反吐を吐きながら今日も私は美しく生きます。