自己紹介

アリマカナコ
作家兼自身のパトロン(会社員)。文章・フィクション・ノンフィクション を書きます。
1991年生まれ。東京都在住。熊本県熊本市出身。
大学時代は、戯曲を主に執筆。
現在は戯曲の他、小説、エッセイ、ブログを執筆し、ネット上での発表やイベントでの出展等で勢力的に活動。
自身のコンセプトカフェ訪問での出来事や心情をまとめた「メイドカフェご帰宅日記」(2015年)が100部を完売。他著書多数。
趣味は、一度も行ったことのない場所へ行くこと。飲食店で頼んだことのないメニューをオーダーすること。


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「自分は本当は◎◎になりたい。だから××は本業じゃない」について

6 内に怒ることなく、世の栄枯盛衰を超越した修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

 

注釈を見ると、「世の栄枯盛衰を超越した」は「こうなりたい・ああなりたいという気持ちを超越した」という意味なんじゃないか?みたいなことが書いてあった。

それを読んで、私は以前水野しずさんの、ピーター・メロスという自分の取材に来たライターさんに対しての逆インタビューな様相の記事を読んだことを思い出した。「ピーターさんはどうしてそんなにインタビュイーに対して失礼な態度を取れるのか、ライター業に真剣に取り組まずにいられるのか」というその原因に迫るような内容だった。

ミスID水野しず。やる気の感じられない態度で取材に来た記者に強烈な説教をキメる | ピーター・メロスの人生エラーランド

その原因は、ライター業に真摯に取り組むことが一番小説を書くことに対してもプラスになるのは間違いないのに、「自分は本当は小説家になりたい(自分は小説家であるはずだ)だからライターは本業じゃない」という気持ちが、その事実を見えなくさせてしまっている、ということなのかなと思った。

 

だからそういう風に、

「◎◎になりたい」という思いだけが先走ると、今この場で一番自分がなすべきことがわからなくなってしまう

という、そういう事実のことをこの一文は言っているんだと思う。

 

 

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

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確かな希望や愛もなければ確かな絶望もない世界

5 無花果の樹の林の中に花を探し求めて得られないように、諸々の生存状態のうちに堅固なものを見いださない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

 この世で堅固なものは死しかないって何千年前からもうすでに言い切られてたんだな~とまず思う。

もう何千年も、どんなに文明が発展を続けても、確かな希望や愛もなければ確かな絶望もない世界を相変わらず人間は生きてる

 

 

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

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自分を過剰に卑下することって驕慢と同じ世界線で起こってる

4 激流が弱々しい葦の橋を壊すように、すっかり驕慢を減し尽くした修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

驕慢を滅しつつ、自分を卑下しない。この両立がいかに大変なことか。

でも本当は自分を過剰に卑下することって驕慢と同じ世界線で起こってることだよなあとも思う。

自分の中から本当に全ての驕慢を滅することができれば、おのずと自分のことを卑下することもなくなるのかな、とおもった

 

 

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

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正しくないけど美しいことを切り捨てられないのが私の妄執

三 奔り流れる妄執の水流を涸らし尽くして余すことのない修行者は、この世とかの世をともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである

 私がこの言葉すごいなと思うのは、これは「仏道を極めたいのなら、この仏教そのものにさえ固執するなよ」という仏教の教えなわけでしょ…。そういうことを言う宗教が実在するんだと思って。仏教が哲学だと言われる所以を感じた。

 

ただ私は、妄執と愛の狭間で殉死するように、正攻法で思いを捧げまくるヲタク達をこれまでたくさん見てきて、それは確かに正しくも賢くもないけど、なのに誰よりも何よりも美しく正しい瞬間が何遍もあったから私は妄執や妄執によって生まれる迷いを否定したくない。

妄執を捨てるのは、妄執を捨てたいひとだけでよいと、当たり前におもう

 

正しくないけど美しいこと が切り捨てられないのが私の妄執

 

 

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

 

 

台風や地震は避けようがないのと同じような気持ちで、人との出会いや別れも見つめている

友達のことが好き、と、だから仲良くしたい、会いたい

があんまり結びつかない

「両想いのための努力」

とかもよくわかんないし

会うべき人にはどうやっても会うんだろう、そうじゃない人には会わないんだろう、会わなくなるんだろう、とだけ。

もったいないのでは?運命は自分で辿るものでは?

時々私の中の他者がそっと囁くけど

人間関係の中で私はどうしても、それがどんなに自分に都合の良い展開を作るのだとしても、不自然な努力ができない。

毎日、ここからはじまるのかもしれない、とおもうし、これで終わるのかもしれない、ともおもっている

 

 

 

愛欲が否定されるのは、健全な組織運営のため?

スッタニパータの二行目にはこうある。

 

2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

 

宗教で愛欲が否定されがちなの、カルト宗教とかって「俺と性行為をすればご利益があるから」的な下劣な権力者が現れやすい環境でもあるから、教団としてそういう人間の出現を抑制するための、組織運営的に必要にかられている意味合いもあるのかなーとかも思ったのですが、どうなのでしょうか。全然詳しくはないです。

スッタニパータに関しては全ての欲や感情の昂りを捨てろという文脈の中で、具体的な欲の一つとして愛欲も上げているだけに過ぎないのでしょうが。

 

 

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

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