児童文学は、ただ子どもの孤独に寄りそうことができたならそれで十分

生まれて初めて胸を打った歌詞、それは今思えばカントリー・ロード

ひとりぼっち おそれずに
生きようと 夢見てた
さみしさ 押し込めて
強い自分を 守っていこ

 だった。孤独を肯定してくれている気がしていた。

 

理由がなんであれ、子どもなのに孤独や絶望を自覚していることは、正しくないことのような気がしていた。

正しい子どもになりたいとどこかで願っていた

でも同時に孤独を静かに肯定してくれる表現に救われてもいた。

 

10歳の頃から10代ずっと、私の傍らにいつも浜崎あゆみの曲が流れていたこと、それはたぶん、私の抱えた正しくなさと正しさが、彼女の抱えている正しくなさと正しさにシンパシーを感じていたからなのだと思う。

 

今なら、別に正しくなくてもいいじゃん、ちゃんと毎日生きているだけでえらいよ、と当時の私に言ってあげられるけど、当時は正しく生きたくても生きられないことがすごく後ろめたかった。

 

少年院出身のアイドルがその自分の肩書を肯定してメディアに出ることを「不謹慎だ、反省していない」と言う人が少なからずいて、だけどその人は本当に誰かのせいや自分のせいで後ろめたい気持ちになるようなこと一つもない、自分だけは清廉潔白だって本当に言えるんだろうか。
20歳そこそこの女の子に、例えその原因が機能不全家庭にあったとしても一生罪人らしい顔をして生きていろと強いれるほどのそれってなんだよ?と言いたくなってしまうけど

 

孤独や自分が思う自分の正しくなさ、それを言語化できない苦しみに苛まれていたけれど、子どもの孤独や絶望に静かに寄りそう表現、漫画、本、音楽、そういうものに救われていたなと思う。

児童文学や絵本も別に道徳心や教養のなすりつけなんていらないし、そんなのは子どもにばればれだから、それがポップで明るいお話しでもそうでないものも、フィクションでもノンフィクションでも、ただ子どもの孤独に寄りそうことができたならそれで十分だって、早く気付いてほしいよね

 

 

細胞や遺伝子は重ねた年月を忘れず着実に老いてゆくけど

 

意味がある言葉を発することに疲れていた

 

インスタやツイッターをやることは、庭の剪定。

誰かの綺麗なお庭を見たり、自分の好きなお庭を作ったり。

(そういえばアメーバピグが終わるんだってね)

その無意味さが心地いい。化粧品もお洋服も可愛くておいしいスイーツも私にとってはすごく無意味でだから好きだ。綺麗なお庭以外の世界を無化するものだから。

 

薬物売買に対する罪のことは置いておいて、「薬物使用・乱用」って何に対する罪なんだろう。依存が罪。悩み抜いた末になのか軽率になのかはわからないけど、一番最初にそれに手を出してしまったことに対する罪、辞められなかったことに対する罪、捕まる前に更生を試みなかった、あるいは更生に失敗したことに対する罪…。

全然笑えないし、少なくともその依存の重さや苦しみがわからない私が患者に向かって「薬物使用はだせえ」とか「がっかり」とか全然言えないけど

 

 

一度やってしまった事実は一生消えない、二度とやらないと決めてそうやっていても人は「あの人はそれをやってしまった人(だから二度目がないとは言い切れない)」という目で見るし、細胞や遺伝子は重ねた年月を忘れず着実に老いてゆく。

でもそれでももう一度ゼロから始めたい、失敗したら何度でも、ゼロから始めたい。世界全てがそれを許さなくても、私の気持ちの中でだけは、そうしていたい。

 

 

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正しさが誰も救えないのなら、せめて「ブスは自信を持ってはいけない」と彼女に思い込ませた全ての概念をまず抹殺した後に怒りたい

ネットで人気の可愛くて聡明な女の子に

「ブスなのになんで自信満々なんですか?」

とDMしている人がいた。

 

「ブスは自信を持ってはいけない」というお前が勝手に作った蟻地獄に他人を引きずり込もうとするなよ

と一蹴するのは簡単だけど、正しさが一体何を救えるんだろう

 

正しさが誰も救えないのなら、せめて彼女に「ブスは自信を持ってはいけない」と思い込ませた全ての概念を殺し終わった後に初めて彼女を怒りたいと思ったよ。いや本当に本当はそうあるべきでしょう。それが出来ずに自分の切実さに従って怒らざるを得ない瞬間がいつも虚しい。これが救いようのない怒りだということがあまりに確かだから。

自分の感受性ぐらい自分で守れと叱ることすら躊躇するぐらい虚しさで溢れているこの世の中で、どうして正義が人を救えるだろう

ルーツを思い出す季節

一人で生まれて生きてきたような気がしていても、私にとってやっぱり盆と正月は自分のルーツに向き合う季節だった。
私の母は、何を間違ったのか市電の運賃箱に間違ってIC乗車券を突っ込み、交通局まで行って運賃箱を開けて取り出してもらったことがある。
それを私は赤いポストに郵便物を投函しようとするたび思い出す。スマホを間違ってもここに入れるなよ、私はそういう間違いを犯す血を引いてるんだぞ、とごくりと唾を飲む。
祖母が、鞄に入れたはずの年賀状がないと言いながら自分の鞄をごそごそ探す姿や母が、毎回帰宅時に鍵をごそごそと鞄の中から探す姿を見るたびに自分と重なって、ああーこれもやっぱり血なのかなと思う。

 

姿形が違う、辿る人生も、心も。
なのに「血は繋がってる」
不思議、変なのとは思うのに、特段の違和感もまたないのが親族ってことなんだろうか。

自分の欠落や歪みが、流れる血の仕業なのか、育った環境によるものなのか、それとも持って生まれた自分の資質ってことなのか、被験者は自分一人なのだから確かめようがない。
だからこそ皆、それは環境のせいだという、いや、持って生まれたその人の資質によるものだと言う。


本当は誰にもわからないけど

でも、考えてしまう
「もし、生まれた場所がここじゃなかったら」

私が泥水すするような思いでやっとできるようになったことも、誰かにとっては成長の過程で特に苦労の記憶もなくすんなりできるようになったことだったりして。

そんなことを考えても仕方がないのだけれど、時々欠落の数ばかり考えてしまう。
「もしも、私があの人と同じ環境で育っていたら」
もしそれが叶ったとして、それでも私の欠落が欠落のままなら、本当にそれは私の持って生まれた資質の問題だという事実がただ横たえているだけ。その真相はわからない、誰にも。

わからないまま、最後の日まで生きていく

自己紹介

アリマカナコ
インターネット超文章担当。文章で作品を作って発表しています。フィクション、ノンフィクション、etc
1991年生まれ。東京都在住。熊本県熊本市出身。
日本大学芸術学部演劇学科劇作コース出身。在学中は劇団を主宰して自主公演を行っていました。
現在は小説、エッセイ、ブログ等々を執筆し、ネット上での発表やイベントでの出展等で活動中。
自身のコンセプトカフェ訪問での出来事や心情をまとめた「メイドカフェご帰宅日記」(2015年)が100部を完売。他著書多数。


連絡先
arima.oremeru@gmail.com

やってること
・イベント出展(文学フリマコミティア、自主企画、etc)

ツイッター
https://twitter.com/arima08

・ブログ(ここです)
http://arikana.hatenablog.com/

・noteも更新中。
https://note.mu/arima08

・ワインnoteマガジン「ワインを飲む。」更新中
note.mu

・熱海旅行小説「熱海旅行へ」更新中
note.mu


2018.01.01更新

2018年総括と2019年に向けて

ここ数年で生き抜く地力みたいなのがちゃんと身についてきた気がするなあという実感が伴ってきました。

超具体的に言うと、知らない大人や知らない会社や知らないお店に電話がかけられる、とか、

見積もりの取り方がわかる、とか

ビジネスメールがそれなりに受け答えできる、とか

最初からこういうのがそれなりにこなせた系の育ちをしていたような人達からしたら、「は?」という感じかもしれないけど、

家から出るのもかなりの気合いがいるし、電話をかけるのはおろか、携帯にかかってきた電話を取るのもためらってしまうぐらい、もうそのぐらい、社会や他人に接続する全てが怖かった私が今はそれができるってかなり希望だと思うよ自分でも…。

私が自分で欠けていると思っていた部分は修練や経験である程度まではどうにかなる類のものだった、ということがわかった。

 

表現活動?個人活動?の流れ的には、それまで定期的にイベント出展に出てるうちに、だんだんどういう本が売れるのかわかってきて、かといって売れる本を造ろうとすると自分が作りたいものと離れていってしまう気がしてそれはなんか違うし、このまま出続けて「コンカフェの本をつくるひと」になるのも違う気がするなあ、とnoteでの更新に力を入れるようになった。

いや正直どちらかといえばnoteよりこっちのブログの方がトーンとしては好きなんだけど、いくら自分的に超傑作なブログを高頻度で更新してもたぶんここでは何も世界が広がらないなってことを悟ってしまったから…。

というような実践や思考の紆余曲折があって、今年の暮れにはwebマガジンを作って、それの紙媒体化&イベント出展を目指したいなという気持ちが湧きあがってきて、それでできたのがこちら

note.mu

なので来年はこのwebZINEごはんと女の子の主宰としての活動をがんばりたいと思います。

今noteで更新している他マガジンも早めにきっちり区切りをつけられるようにしたいです。

 

それ以外だと、webマガジン始めるからっていうのもあるけど、普通に趣味も込みで写真を勉強したい!

 

そして最近は本屋巡り&その本屋でその日一番気になった本を買って読む活動が楽しいので、これは飽きるまでやりたい。

化粧品研究やワインはじめお酒を飲みながら勉強する活動も楽しいのでこちらも続けたい。

 

あとはもう本当に、ちゃんとこれが本当に自分の本意なのかということを常に自問自答することを忘れないようにしたいし、より自分の本意に沿って生きてくためにはどうしたいいのかっていう解を求め続けることも止めない。

 

年の瀬、よいお年を、1年の総括、来年に向けて、

とか言っても正直何も実感はないんですけど、変わらずまたがんばりたいね、今日も明日からも。

 

あなたの美が、あなたの意志と行動によってもたらされたものであるということを厳密に理解するために、私は、

生まれつきの顔の美醜って、それは単純に皮とか肉とか骨の具合の話でしょ

可愛く装いたいとか、美しくなりたいとか、ピンクが好きだからピンクが似合う自分になりたいとか、そういう意志や、その実現に向かうための行動が一番美しいし可愛いよって本当に思ってるしそう言い続けたい私は。

 

性自認が十人十色なのだとすれば、私の場合は、

私という精神に「使っていいよ」と与えられた身体が女だった

というのが今は一番しっくりくる。

 

美しい人、その美について

それを主体性を持って体現する人

それを鑑賞したり享受したりする人

決してその二元論には収まりきれないと思っていて

例えば私はどちらかといえば美を享受する側の人なんだろうけど、でもやっぱり私が毎月美容院に行ったり化粧品を買ったりするのは、まあほんとに単純にそうしたいからっていうのもあるけど、やっぱり美はどうやって作るのかを身を持ってわかっていない人は、他人が作り出す美を精細に見つめることもまた難しいのでは?と思っているから

つやのある髪も、整った眉も、綺麗にカールした睫毛も、何にもせずに得られることなんてないから。

私は、あなたの美が、あなたの意志と行動によってもたらされたものであるということを厳密に理解するために、自分の身体を使って美の作り方を知る。

 

顔面の話だけじゃなくて、例えば誰かが私に向けてくれた細やかな優しさや気づかいに気付くためには、自分もまず人を気遣うっていうことがどういうことかをわかってないとその感受性もまた得られるはずがないから。

そういうの全部全部私は美しさだと思っているから

 

だから私の目の前に現れた美しさを全部見逃したくないし、気付けないとかありえない

っていつもそんな気持ちだ