今日の話

ブログでは告知できませんでしたが、今日はWEBメディアびっくりセールという催しに出展してきました。
お会い出来た方、お話してくださった方、お手に取ってくださった方、皆様ありがとうございました。

なんか、何を誰に手渡したいのかをちゃんともっと考えなきゃと思いました。
最適化するために興味持ってくれそうなもの、買ってくれそうなもの、にただただステータス振り続けたらどんどん薄く空洞になってしまいそうで怖い。手段でしかないものを目的と取り違えてしまいそうで。

帰りにゆっきゅんがゲストで来ているbar星男に行って、ゆっきゅんに浜崎さんの曲歌って欲しい候補を数曲伝えたらその中からEnd of the worldを選んで歌ってくれました。
ゆっきゅんがいるbar星男は、小さなミサみたいな空間だった。
 

2017年ニュータイプピーポー

今日は池袋のお屋敷(執事喫茶スワロウテイル)に帰宅した(行った)んですが、帰りにスワロのギフトショップ寄ってそこの伏見さんて人との会話の感じが個人的になんかニュータイプだったので書き残しておきます…。

(伏見さんとお話しするのは三回目)

伏見さんがいるレジ前に購入物を持っていき、この間買ったくるみクッキーの感想をそうだ伝えようと思い口を開く

「そういえばあのくるみクッキー、めっちゃおいしかったです。」

伏見さん、無言のまま超笑顔。

「(この方こんな笑顔できるタイプだったのか…)超いい笑顔…。」

「食感が固くございませんでしたか?」

「固かったけどそれも良さというか…すごいおいしかったです。」

「集中力が求められる場面で召し上がるのがおすすめでございます。あちらは。」

「そういえばお名前なんて言うんですか?」

「伏見でございます。」

ギフトショップ公式ブログの自分の番でほぼ毎回何故か林檎の話ばっかりしている人がいて、その人の名前なんだったっけ…。

「ギフショのブログでりんごの話ばっかりしてたのって誰でしたっけ?」

「私です。」

ここで顔と名前がようやく一致する。

「ブログでは長くなってしまいますので分量等については細かく記載いたしませんでしたが、お水は林檎がかぶるくらいがベストでございまして(以下突然最新ブログ記載の林檎のシロップ漬けとついでのアップルティーの造り方の説明が続く)」

ちょっと我に返ったように入口まで買ったものを持ってきてくださる。受け取ろうとすると

「よろしければ一段お降りいただいたところでお渡しいたします。」

降りる。

「こちら、段の上でお渡しすると帰り際に段差でこけてしまわれる方が多くいらっしゃいますので。」

と、ここではこちらの感情を汲んだコメントをしっかりされる。

 

接遇がきちんとできお客さんの感情の機微みたいなものもしっかり読み取れるのに、なんかナチュラルボーン面白い人だったな…。

 

そんな伏見さんのガチりんごヲタクぶり溢るるブログはこちら。

http://www.butlers-cafe.jp/giftshop/diary/?cat=13

 

 

最初の瞬間は、たったひとりが誰かを本当に救いたかっただけなのかもしれないけど

なんか私の界隈研究みたいな趣味って、宗教研究とか企業研究に近いものがある気がしてきた。
私は無宗教状態に近い仏教徒だけれど、敬虔な信者でない人間も、というか、社会で生きる限り宗教的なもの はいつだって隣り合わせであることを知っている。
キリスト教系の幼稚園に通っていたことが、たぶん私の最初の思想や道徳心の原型になっている。だから、宗教があらゆる人間に対して、隣り合わせであることを知っている。

だって会社も、家庭も、音楽も、芸術も、宗教のすぐそばにあるものだ。どうあがいても。

浜崎さんガチヲタ時代、また16歳~22歳の期間に、血まみれになりながら自分に強制した、俯瞰しろ冷静であれ真実であれ という強迫観念から自由になった今でも、やっぱり自然にそういう位置にいようとする自分がいて、その浮き輪につかまりながら、知るために私は自分の半身を沼に沈ませるようなところがある。高みの見物じゃわからないことやほんとの気持ちが一杯あるから。
それがなんなんだ、なんの意味があると言われたら全然答えられないけど、でも必ずいつか意味を持つ時が来るだろう
という、確信めいたものだけある。

 

小さいアイドルが、売れっ子になって初期のファンが離れて行く

ということは、新興宗教でも同様の現象があるんだろうな。

政治と策略と権威に溺れ、集団ヒステリー状態に陥ってしまった教団も、最初の本当に最初の瞬間は、たったひとりが誰かを本当に救いたかっただけなのかもしれない、社会の致命的な欠陥を埋める、誰も取りこぼさない悲しませない仕組みをつくりたかっただけなのかもしれない。

でも、団体が大きくなればなるほど、歴が長くなればなるほど、初期衝動は薄れどんどんおかしくなっていく。

もう、アイドルでも会社でもなんでも、あまりにもどこででも聞く話すぎる話だ。

ありきたりな話だけど、でもそのひとつひとつに対して悲しく思うよ。

 

「私が死んだら世界も死ね」という感覚があった頃の話

生まれてからしばらくの間、「私と世界は同時にはじまった」という感覚が無意識にあった。だからたぶん、「だから私と世界は同時に終わる」とも思っていた気がする。

最初から先生は先生で、お母さんはお母さんだった

とおもっているということは、そうでしょ。

 

小学生の頃、突然はじめて「私が生まれる前から世界はあった。だから私が死んでも世界は続いていくだろう。」

と気づいた時、素直にショックだった。

 

私のようなちっぽけな人間だけでなく、皇帝もマザーテレサエジソンも、どんな要人だろうが、功績者だろうが、その人が死んでも世界は平然と回る、ていうか人間全員死んでも地球は生きて行く。

 

あの人が死んだから地球は滅びた

なんて、人間が人間である限り起こりえない。

ということに気付いた時、結構どうしたらいいのかわからなかった。

今の私にはよくわからなくなってしまった、「私が死んだら世界も死ね」という感覚があった頃の話

生きてるだけで失っていくもの以上

なんかどこにいようが楽しく生きられるかどうかは自分次第でしょう!!!!!

とおもうので、楽しいこと探したい、いつでもどこでも。

自分が楽しいとおもえることを真摯にやるのは別の楽しいことを呼び込むってことに私は気付き始めている。

 

っていうのと違う次元で、私は今週もがんばろうとか今日もがんばろうとか午後もがんばろうとか、誰かが誰かに呟いた言葉に馬鹿正直に励まされている。

だって、がんばらなくていいよなんて言われた日には、もう永遠に布団からも家からも出れなくなるよ。

でもそれじゃ生きてるだけで減っていくものと同等以上のものは絶対に手にできないから割に合わない。毎日、生きてるだけで失っていくもの以上に勝ち取らなきゃ、そんな気持ちで布団を出て家を出るよ、毎日。

例え家を出たせいで嫌な目に合う日があっても、だ。

手にしてその温度を知るまでわからないこと

気付けばツイッターには食べ物の話ばっかり、なんか、不特定多数みんなさらっと読み流せるエンターテイメントって食べ物じゃん、みたいな。

そこまで言及するほど私は本当に食べ物のこと好きなのか。わからん。

ゴールデンタイムのテレビが食べ物の話かクイズしかやらないのと同じだね

まあでも、ねえ、やなことあんま考えたくないじゃんわたしもみんなも。スマホを開いてる時ぐらい。

とおもって。

 

同じ温度で真摯にやってくれよ

って言えない。

だって他人だから。自由だから。

でも自分と温度の違う人とどう接したらいいかわからないので私は自分の殻に閉じこもる。

それはたぶん、間違ってるんだろうけど、正解が誰にもわからない。

真摯って何か

手にしてその温度を知るまでわからない、それまでは心に引っかかる違和感だけがシグナル

 

誰かにとってくだらないことでもなんだってできるだけ真摯にやりたい。

それがうまくできなくなって布団から出れない日すら、真摯に布団にうずくまりたい

ここがゆるやかに死へと向かう平坦な戦場なのだとして

Eテレの達人達を見て、獣医の齊藤慶輔さんがとても強烈だった。

www4.nhk.or.jp

何十年も野生の命と現場で生身で向き合うってことの凄まじさが表情やたたずまいにありありと浮かんでいた。

いかに死が排除された世界で自分が生きているかってことに触れた気がした。

 

ここが生ぬるくゆるやかに死に向かう平坦な戦場なのだとして、でも私は全うしたい、ここで生きることのプロになりたい、ここで私にしかできないことが必ずあるはずだ。誰かをただ賞賛してはい終わりなんか、それこそ無責任だ。