変身/フランツ・カフカ

ロリヰタ読んでから、そういえばこれも野ばらちゃん下敷きにしてたなー、と思って読んでみました。
あと去年の夏、教習所の宿泊施設でテレビ見てたら、森山未来がグレゴール役で舞台やっててそれがすんごいインパクトあった。
人が生身の身体で毒虫を演じるっていうのはなんかショックだった。生で見てみたかったなあ…あれ。

ストーリーは、グレゴール・ザムザが不安な夢から目覚めたある朝、気が付くと毒虫になっていた。というもの。そんな彼とその家族のお話。

「人間が毒虫になる」っていうのはありえない。そんな非科学的なことは絶対にありえない。
だけど、それが妙にリアルに感じてしまう。
「あれ、もしかしてこういうことってあり得るのかな?」
って一瞬錯覚してしまう。
描写が優れているっていうのはもちろんあるだろうけど、でもやっぱり最大の要因は、
「なぜグレゴールが虫に変身してしまったのか。そしてなぜ虫になるのが他の誰でもなくグレゴールだったのか。」
ということが一切描かれていないという点が大きいのではないでしょうか。

主人公が何かに変身するっていう物語はたくさんあるけれど、多くは、その理由、原因、目的が明示されている。
例えば戦隊物だったら「悪を討伐するため」
美女と野獣だったら「王子がわがままで、魔女に呪いをかけられたから」


変身した原因がわからない場合は、その原因を本人なり周りの人が探求することや、元の姿に戻ることを目指すことが物語になりやすいと思います。

でも、変身ではグレゴールも家族も、眼の前にある現実的な問題で精一杯で余裕がないからか誰も深くその理由を考えない。
人間に戻ろう・戻そうとやっきになることもない。


だったら、何故グレゴールは毒虫になってしまったのか?そして毒虫になるのがなぜグレゴールだったのか?

そこに理由はないと思う。
それがさらに無力感を募らせる。


そしてグレゴールが毒虫になったことに、道徳的な教示はどこにもない。

実際おとぎ話によくある、「悪いことをしたからお仕置きに卑しい姿に変えられてしまいました」
なんてことは現実にそうそうない。
善人が死ぬことがあれば、悪人が超金持ちになることもある。
善人の不細工が居れば、悪人の超美人が居る。
不条理だ。

だからグレゴールが毒虫になったのも不条理だ。
悪人が醜い姿に変えられてしまうという法則があるならばおかしい。
彼は彼の家族の中でも一番家族に貢献していたはずなのに。



たぶん読んだ人は、みんなグレゴール側に感情移入すると思う。グレゴールの家族でさえ、もし小説としてこういう作品を読んだら、
「わあ、グレゴールかわいそう。この家族は家族なのになんてひどいんだろう…。」
って安い同情をグレゴールに向ける気がする。
私もグレゴール側の気持ちでこの作品を読んだけれど、でもほんとは私はグレゴールの家族側の人間かもしれなくて、そういう、
「加害者側が被害者側に感情移入して読む」
ということも盛大に皮肉られてるような気がした。考えすぎかもしれないけど。


なんだろうな、家族側に対しては「もうちょっとグレゴールの気持ちも汲んであげようよ。」みたいな教訓を述べようとすれば述べられるんだけど、
グレゴールは「異形の姿になってしまった」「家族から受けるひどい扱い」という現実の中でただ在り続けることしかできない。

そこにはなんの教訓も救いもない。


劇的に悲しい!泣ける!ってわけじゃないんだけど、心の中が重量のある灰色の空気でどんより満たされる作品でした。