強迫観念からの脱却

作品を書くことをはじめてからずっと、「今すぐに書くのをやめなければならない。」という強迫観念と葛藤しながら書いていた。
なぜそんな強迫観念に襲われていたかっていうのは具体的な理由があってのことじゃないけど、ただひたすらずっと自分でそう思ってたし、私の書いたもの読んだ人・見た人はみんなそう思ってるだろうと思ってた。

小劇場とか学校の実習とかでアンケート書いてくれる人たち(逆に思う所あってもそれを書かない人も)や同期達はみんな優しい。とにかく何を思っていたとしてもいいところを伸ばす・育てる姿勢で言葉をくれる人達ばかりなので、4年間一度も、「君は全然向いてないから書くのやめたら?」とは言われなかった。それが私にはとても意外なことだった。


ずっと自分の書いたものが好きになれなかったし読み返すのも怖かった。それは作品の良しあしに関わらずとにかく自分の書いたものってだけで嫌だった。鏡を見るのが怖くて嫌だった時期があったのと同じで、自分と自分の書いたものを切り離して考えることができなかった。自分のことを嫌だなって思う分だけ書いたものも嫌だった。
そんな姿勢じゃダメだなって自分でも思ってるし、高名有名な漫画家の先生のトークショーでも、自分の作品に自信がないなんてダメだ、自信がないものを世に出しちゃダメだって言われたので、余計「書くのをやめなければならない」という気持ちが強まった。
どう作品を良くしてくかとかそっちについて頭を使う以前に、
私は作品を書いている。でも私は自分が物を書くのをやめなければならないと強く思っている。という自己矛盾で一杯になっていて、それ以上どうしたらいいのか全くわからなかった。


でも、なんか「今すぐに書くのをやめなければならない」とはもう今は思わなくなった。どうやったら良い作品が書けるようになってくかの鍛錬の仕方とかも分かって来た気がする。
でも周り見てたらまだまだ全然周回遅れだなってかんじだけど。10周遅れが9周遅れになったってかんじだ。まあでもそれでも進歩だ。


自分の脚本を第三者(それもこれまで辿った人生とか価値観とか人生観とかが私と一番遠いであろう人)にフルで演出してもらって一番学んだことは、「書いた言葉とそこから読み取れること以上のことは他人には何も伝わらない」ということだった。
前は言ったことしか伝わらないっていう所に言葉は不完全だ、そういうところが言葉は不便だ、もっとそれ以上の手段があればいいのに、と思ってたけど、言ったこととそこから読み取れることしか伝わらないっていうのは、とても良い所でもあるように感じた。
演者がステージに上がった時、舞台裏の苦悩や思いが全く見えないっていう良さと同じことだとおもう。

こないだふと自分のブログを読み返した時も同じことを思った。書いてる時は、この言葉選びでいいのか、とか感傷的で恥ずかしいとか色んなことを考えていたけど、別の誰かの書いたものとして読んでみると、そんなどろっとした思考の跡は見えなくてさらっとしてた。
辛かったはずの時期の笑顔の写真見ると、辛かったはずなのに楽しさしか伝わってこないとかそういう良さ。


こないだ売れっ子の漫画家の先生のトーク番組を見ていた時、ああなんてフラットな人なんだろう。余計なものを全く感じないなって感じたんだけど、鍛錬するっていうのは、新しいことを会得する要素もあるけどそれ以上に余計なものを削ぎ落して行く作業のことなのかもなあってその時思った。