文フリのはなしはまた明日

嫌なことや悲しいことも、うれしいことや楽しいことも、その確かさや不確かさは同等のはずなのに、なぜか嫌なことがあった時の痛みだけが一番確かで真実な気がしてしまってその痛みだけを何度も何度もなぞってしまう。のはよくなーーーい!

「自分は精神的な痛みに敏感すぎるから、もしそうじゃなかったら手首を切る人になっていたかもしれない。」ってテレビで作家の人が言ってて、それは自分にはわからない事象をむりくり自分の価値軸に当てはめる型差別なのでは?とその時の私は思ったのだけれども、それがもしこういうことを言っているなら少し理解できるかもしれないとおもった。
でも私だって手首切ったことないからこれもまた同種の差別なのかもね…。
何事も、同じことを思っててもそれを実際行動に移す人と移さない人、口に出す人と出さないと判断した人の間には埋めようのない溝がある。


嫌な出来事に蓋をするんじゃなくて、紐解いて解決しようとやっきになってうじうじするんでもなくて、もっと軽やかにパーンと駆逐したいよねそういうことは。
わたしはだから今テレビ見てて、あみみの「重盛さと美と遊んでる時に重森ファンと遭遇した時自分のファンのように接する」ってエピソードを聴いて涙腺が緩んだ。その前後、今日はどうしても調子が悪いって言って泣いてしまったあみみに、それを笑いに変えて彼女の涙を最大限フォローする周りの大人達の優しさに自分まで救われた思いがした。


不愉快や嫌なことに明確な解決策が打ち出せない時、不遇を感じた時、頑張ってもダメな時、楽しめないのが辛い時にナチュラルボーンにそれが楽しいと無邪気に示す人を目の前にした瞬間。「どうせ」って全部投げ出したくなるけど、でも言いたくないのは私の好きな人達は絶対に「どうせ」なんて言わないから。例えそれが強がりだとしても。
不本意な状況に陥って、もうベストの解答が存在しないと悟ってしまった時でさえ最善を尽くそうとする人達だから、私もそう在りたい。