客観的な事実を述べてるような言い回しの裏側に滲む恣意

読んでる本に

「○○世代に○○な人は多いのではないでしょうか。」
「○○な人は少なくないように思います。」

って言い回しが何度となく出て来てそれがなんとも気持ち悪く、何回読んでもそこでひっかかってしまう。

客観的データが示されてないそれは、一見客観的事実を述べているようで、事実がどうあろうが筆者の恣意でどうとでも言える言い回しだ。

なぜそう思うに至ったか、好意的に考えれば「○○世代の人達と日常的に関わっている中で感じる彼らの共通点がそうだから。」

だとしても、身の回りで関わる数十人数百人をソースに社会一般は語れないだろう。

例えば日常生活での与太話の中でだとか、場や文脈によってはそう言い回しも全然アリだと思うけど、商業でそれなりの値段で売る本としてその言い回しはあまりにお粗末かなとおもってしまう。

 

「世の中に人を殺したいと思ってる人は多いのではないでしょうか。しかし、わたしは人を殺したいと思うことはいけないことだと思います。」

ぐらいのことなら誰でも5秒で書ける。客観的データがなくていいなら、「世の中の人」なんてどんな風にでも設定できるし、明確な個人として存在しない「世の中の人」がそれに対して自分に怒りを向けて来るリスクもない。

だから「世間はこうだから(ただしそれを裏付ける客観的データはない)」の裏に自分の恣意滲ませる言い回しってなんかむずむずするっていうか気持ち悪い。よく耳にするありきたりな言い回しだけど。

小中学生なら許されるかなとも思ったけど、でも早くその言い回しに潜む欺瞞を見抜く教育をして欲しいし、作文の添削するならそのいい加減さを指摘して欲しい一文。

 

その読んでる本には

「大衆は皆自分を変えたいと思ってるけれど、変わることを恐れています」

っていうような一文があるんだけど、この文で筆者が言いたいことは

「自分は自分を変えたいと思ってるし、そのことを恐れない」

ってだけのこと。じゃあはなからそう言えばいいじゃん!!

なんで自分の言いたいことのために、架空の大衆作り出すんだよ!大衆だってそんな自分勝手に踏み台にされて迷惑だよ!

 

って思った。不特定多数/少数を十把一絡げに悪者にする言い回しって、せめてそれが自分の偏見にすぎないという自覚を持って発して欲しいけど