意図的に感受性を閉ざすことへの迷いについての話

嫌いな食べ物を、好きじゃないからとお皿に残したままのひとを見て、なんで私は子どもの頃苦手だったものが今は食べられるようになったんだっけ?と思い返してみた。
一番印象的なのがわさびだ。引っ込み思案だった小学生ごろの私は回転寿司で店員さんに直接さび抜きを頼むことが苦手で、かといって周りの大人に頼んで間接的にお願いするのもまどろっこしいしだんだんさび抜きを頼むのがめんどくさくなってきて、わさびに対する感受性のスイッチを最大限切ることでそれを克服したのだった。
食べ物に対する苦手は、ある日突然おいしく感じるようになって好きになった、というパターンより、嫌いであることによって生じる面倒くささがわずらわしくなって、その食べ物に対する感性を鈍らせることによって克服するというパターンが多かった気がする。
だけど思い返すと好き嫌いが減った今の私より、好き嫌いがはっきりしていた頃の私の味覚の方が鮮やかだった。
嫌いなものに対しての感受性を最大限閉ざしたことによって確かに生きやすさは得たけれど、失ったことも確実にあるとおもう。


去年の年明け早々、インフルエンザにうなされた時、
「心身ともに毒を溜め込まない受け付けない」
「自分の価値観に即した正しいことよりも、楽しいことの方を取る」
と決めて、嫌なものは最大限遠ざけて、避け切れないものには最大限それに対する感受性を閉ざし、より楽しい方を取るようにしてきた。それによって確実に生きやすくなったし楽しくなった。
実際去年はおととしよりも体調を崩すことがぐっと減った。
嫌なものに対して感受性を閉ざさないとほんとに病気になる。だから私の取ったやり方は望んだ通りの効果があった、確かにそうだとは思う。
でも最善ではあるかもしれないけれどこれが正解なわけがないだろう、何かどこか間違ってるんじゃないか、みたいな漠然とした不安や迷いの気持ちもどこか入り混じっている。
だけど感受性を閉ざすことに対する迷い、みたいなものを完全に捨て去ったら、他人への迷惑一切顧みずにいられるクソジジイクソババアになってしまうことは自明だし、だから感受性を閉ざすことに対する迷いみたいな気持ち、も含めて、とりあえず今はこれでいいんじゃないか、とおもった。