読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

個性の定義は空虚だけ

なんでもないときに誰かと喋るとき、私は一体だれなんだろうとおもいながらふわふわと喋る。

わたしにとってわたしは誰でもないから。だから、自分は○○な人間だから、と指すひとと話すとき、それが嫌とかじゃなくて、ただただ強烈な違和感をかんじる。わたしに確固たる自分がいないだけで、他のひとにはそれがあるの。それとも、みんな勘違いしているだけなの。

○○が好きだ、○○が好きじゃないっていう気持ちはあるけど、

「私は○○ヲタクだ」とか、「私は○○な人間だ」

とは言えない。主語なんか別にいらない。

私にとって私の人格やキャラクターってハブ、媒体、そういうものでしかない。

人や物事が私を透過したらどうなるか、私を物事や他人のフィルターに通したら何になるかにしか興味がない。

 

関係性が相手が私を定義をしたとき、はじめてそこに乗っかって相手と話し出す。

その瞬間、安心する時と私を何とも定義するなと心が叫ぶ時の違いはなんなんだろう。

4人以上のグループで話すのが苦手なのは、複数の人間から微妙に違う定義をされることによって混乱してしまうからな気がする。

 

コンカフェやは女性アイドルをすきになったのは、

「おっさんじゃないレズじゃない憧れとしてでもなく、女が女の子にお金を落とす」

という傍からそうじゃない人が見たらわけのわからないであろう感覚によって、世界がわたしを何者でもなく居させてくれたから、それが居心地よかったというのもきっとある。今も。

 

私が女の子にお金を落としているのは、母性でもなければレズだからでもなければ憧れでもなければ女性性を捨てているからでもないよ。

 

自分や他人を単語によって定義していくほど、本質から離れていく空虚な感覚はなんだろう。無意味だとおもってしまう。