劇場版ポケットモンスター キミに決めた!

劇場版ポケットモンスター キミに決めた!

を見てきた。

ピカチュウとサトシの出会いや仲良くなるまで、バタフリーとの出会いと別れ、捨てられたヒトカゲが、自分を捨てたトレーナーの「ここで待ってろ」の命令を守り続けるエピソード…。

初代アニメや漫画を見てた身としては超超超泣いてしまうエピソードてんこもりで実際冒頭から大号泣だったんですが、大人になってから見ると気になるのは、

サトシは

「キミはオレが嫌い?オレはキミのことがすきだよ」

「友達になろう」

ポケモンは友達」

「世界中のポケモンと友達になりたい」

とか言っているのに

いざサトシのポケモンになったら

「◎◎(ポケモン名)、ゲットだぜ!」

って言うの、変じゃない??っておもって。

誰かと友人関係を築こうと提案しておきながら、いざ自分のモンスターボールに入ったら「手に入れた!」と表するの…?

人間同士で友達になった時に

「花子ゲットだぜ!」「太郎ゲットだぜ!」

とか絶対言わないじゃん。

ポケモン、ゲットだぜ!」

というフレーズがポケモンやサトシの代名詞になってるからっていうのは分かるんだけど…。

 

あと、敵キャラクターのクロスは神的な存在から心が黒いと断定されるほど悪い人物なのか?サトシは神的な存在から心が清いと断定されるほどほんとに正しい人物なのか?

疑問が残った。てか2017年の今、正義と悪に感情や人物を色分けしても何も解決しないし、それは単なる差別だっていう時代で、そのことを同じ子供向け映画でも、ズートピアやシュガーラッシュやアナ雪は丁寧にやってたのに。

ポケモンバトルは友達になるためにやるんだ」っていうサトシの言葉も正直詭弁にしか聞こえないし、悪役からの攻撃によって戦闘不能になったポケモンは傷ついて死にそうになって、悪役じゃない人物からの攻撃によって戦闘不能になったポケモンは大きなケガもなくコミカルに目を回してるだけ、って演出が区別されてるのはなんか変じゃない?って思う。

 

楽しいし泣けるとこもあって、教訓が全くないわけじゃない映画かもしれないけど、でも大人キャラがスクリーンの前にいる現実の子どもたちに向かって

「少年少女よ夢を持て!」

と言えるほど、この映画は2017年の社会を生きる子どもたちに生き抜く力や夢を貫く力を本当に与えられているのだろうか??

と考えてしまった。

 

敵キャラのクロスにサトシが負けた時、クロスが投げかけた命題にももっと真正面から答えて欲しかった。

「ホウオウに選ばれた人物かもしれない、悪い人間じゃないかもしれない。でも勉強不足や判断の誤りで自分のポケモンを傷つけ不要な敗北を招いたことは間違っていないか?」に対する答え。

それに対する自分なりの答えを明示しないままピカチュウと仲直りし、自らの判断ミスが招いた敗北に対する言葉はないまま、再びリザードを使って今度は正しい戦い方と適切な指示でクロスに勝利する。

 

 

サトシが言うポケモンマスターの定義を「世界中のポケモンと仲良くなる」と言ったけど、なんかそれは「自分探しの旅」並に曖昧な言葉だなあと思って…。

初期は「ポケモン図鑑を完成させる」じゃなかったっけ?

ゲームでは単なる収集としてやってる活動をアニメでは友情を築くと言い換えるのちょっと無理がないか??と思った。

 

ポケモン20周年記念映画だということだったけど、何か思い知ってしまったのは20年前と全く変わらないサトシという主人公がもうすでに現代にそぐわなくなりつつある人物像であるということ、ゲームなら許されるある種の残虐さ(奪った命はいちいち気にしない、経験値やお金得たキャラクターの個体値だけ気にするなど)を前提にしてつくられたゲームと同じ設定をアニメや映画でやるのはやっぱりどこか無理や矛盾が生じてしまうということなのではないか、ということ。

 

ポケモンは世界中の子どもたちに知られているとは言うけれど、やっぱり日本の子どもや日本社会しか前提にされてない気がしたし、日本社会のガラパゴスや閉塞感が透けて見えてしまっている気がした…。

 

 

上記もめちゃくちゃ本音だけど、でもそういう気持ちとはまた全く別のところで、やっぱり友情っていいな、素敵だな、超大事だなとも思ったよ。

10代以前の頃の方が友情?ケッ嘘ばっかり!!って思ってた。今の方が友情の大切さがわかる。

なぜなら友達だろうが恋人だろうが家族だろうが、どんな関係性に置いても根っこに友愛があって欲しいと思うから。

君と私は対等だよ、っていうことを前提に関係を築くということ。一番、大事で素敵なこと。