間違った世界の中で最も正しいきみが、自らを殺すと決めたこと。

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根底では繋がっている

幸せに生きられていたらそんなこと思いつけただろうか

最後の最後に踏みとどまらせてくれるものが、何もなかったこと

心が死んで人は無敵になるから - 真夜中に

 

想像する。間違っている人達が自死を選ぶのではなく、間違った世界、間違った人達、そのど真ん中で爆心地として最も正しいきみが自らを殺すと決めたこと。

 

南条あや著「卒業式まで死にません」を見つけたのは、BOOK OFFだった。

私はこの本に呼ばれた気がした。

いやそうじゃなかったとしても、2018年のブックオフでこれ以上に買うべき本があるのか?と思って買った。

 

読んで思い出すのは自分の十代だった。

手首で拍動する自分の血管を見つめて、私はどんなに辛く苦しくてもどんなに死にたくなっても、私は自分の身体を自分で傷つけるようなことは一切できないだろう、と悟ってしまったこと。

死までたどり着きたい日があっても、死の前に横たわる痛みや苦しみや恐怖を乗り越えられる気が全くしなかった。

かといってこの先の人生を乗り越えて未来を描くような力も希望も自分の中からは完全に潰えてしまっていた。

心療内科に行けば何か変わるのだろうか、と思いつつも、ひとたび薬を飲んでしまったらもう戻ってこれないような気がして。

学校も行きたくなかったけど、高校へ通うのをやめて大学進学しなかったら、もう一生家から出られなくなる気がして。

心は空っぽなまま、「そちらに行ってしまったら、もう二度と戻ってこれないかもしれない」その恐怖だけが私をその場に留め続けていた。

それが当時の私の絶望の形だった。

 

南条あやさんが生きていた時代に「メンヘラ」なんて言葉がなくて良かった。

肉体的な痛みや苦しみを凌駕してしまうほどの苦しみが、彼女たちの手首や内臓を傷つけさせているのなら、その苦しみは私が想像できる限界を超えている。

人々の想像を超える苦しみが、すぐそこにはあって、それは明日自分に襲い掛かってもおかしくないよ

という事実に蓋をして安心したい人のための言葉「メンヘラ」

自分と彼女の間に線を引きたい人のための言葉「メンヘラ」

 

私の今日の靴擦れの痛みが、どんなに詳細に言葉にしても絵にしても動画にしてもあなたは私の痛みそれ自体を本当に感じることができない以上、私は誰の痛みも本当は分かっていない。

そのことに、名前やカテゴライズが本当に必要でしたか。

 

今よりずっと牧歌的なインターネットで見知らぬたくさんの人に名前を知られて、きっと愛されて、きっと自他ともに認められていただろう才能があって、自分の表現したいことを表現する媒体があって手段があってそれを受け取ってくれる人がいて、

でもそれらは結局最終的に、彼女の死を踏みとどまる理由にはなれなかったということ。

 

彼女を死に至らせたのは何か?家庭なのか、クラスメイトなのか、先生なのか、学校の枠組みを上手く作りきれていない政治や社会なのか、医療なのか、それとも医療でさえも寛解させられなかった彼女の病気なのか。自分に生きてて欲しいと自分で思えなかったことなのか。

 

 

いずれにしても人はみないつか死ぬけど、でもやっぱ死ぬもんじゃないよな、と思う。

南条さんは、お父さんに「気狂い」と言われたと書いていた。お父さんは書籍化されたその日の日記に、「気狂いとは言っていない」と反論するためにわざわざ注釈をつけていた。

死んだら、生きてる人が勝手に自分に注釈をつけるのを止められない。勝手な解釈に反論することができない。

その腹立たしさを思うと初めて死にたくないと思える。

 

いつだって思う、自殺は死んだその人ではなく、社会の敗北であり芸術の敗北であると。

 

わからない、これを読んでいる人が果たして何人いるのか、読んでるあなたにとって私の言葉はどう響きますか。

つらくてつらくてたまらなかったあの頃、「生きることはこんなにつらく苦しいのに、死にたい人に生きてて欲しい、なんてとても言えないよ」とも、「明日や遠い未来にしあわせになれたとしてもそんなの全く意味がない。今この瞬間しあわせになれないぐらいなら今すぐに死んだ方がマシ」とも思っていました。

でもそうは言っても自分を自分で指一本傷つけることができなかった私は、これならやれる、これは絶対やりたくない、これは楽しいからやりたい

そう言った沼をはいずり泥をすすり血塗れになりながら取捨選択の果てに辿り着いたのが、26歳になっている今日であり、そして今日の私はなんとか結構しあわせです。

しねなかった、でいいから生きてて欲しいです。

という今の私の声は、16歳の私にまで届くでしょうか。10年後の私がしあわせに生きられていることは、やっぱり救いにはなれませんか。