ルーツを思い出す季節

一人で生まれて生きてきたような気がしていても、私にとってやっぱり盆と正月は自分のルーツに向き合う季節だった。
私の母は、何を間違ったのか市電の運賃箱に間違ってIC乗車券を突っ込み、交通局まで行って運賃箱を開けて取り出してもらったことがある。
それを私は赤いポストに郵便物を投函しようとするたび思い出す。スマホを間違ってもここに入れるなよ、私はそういう間違いを犯す血を引いてるんだぞ、とごくりと唾を飲む。
祖母が、鞄に入れたはずの年賀状がないと言いながら自分の鞄をごそごそ探す姿や母が、毎回帰宅時に鍵をごそごそと鞄の中から探す姿を見るたびに自分と重なって、ああーこれもやっぱり血なのかなと思う。

 

姿形が違う、辿る人生も、心も。
なのに「血は繋がってる」
不思議、変なのとは思うのに、特段の違和感もまたないのが親族ってことなんだろうか。

自分の欠落や歪みが、流れる血の仕業なのか、育った環境によるものなのか、それとも持って生まれた自分の資質ってことなのか、被験者は自分一人なのだから確かめようがない。
だからこそ皆、それは環境のせいだという、いや、持って生まれたその人の資質によるものだと言う。


本当は誰にもわからないけど

でも、考えてしまう
「もし、生まれた場所がここじゃなかったら」

私が泥水すするような思いでやっとできるようになったことも、誰かにとっては成長の過程で特に苦労の記憶もなくすんなりできるようになったことだったりして。

そんなことを考えても仕方がないのだけれど、時々欠落の数ばかり考えてしまう。
「もしも、私があの人と同じ環境で育っていたら」
もしそれが叶ったとして、それでも私の欠落が欠落のままなら、本当にそれは私の持って生まれた資質の問題だという事実がただ横たえているだけ。その真相はわからない、誰にも。

わからないまま、最後の日まで生きていく